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つむぎとうか

   
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深藍に沈む
♀雪(雪華)かつ遊郭パロです注意

 広い廊下を、裾を捌いて彼は進んで行く。
 立ち止まったのは奥も奥、店で最も高位の太夫の部屋の前だった。躊躇う様子もなく襖を開ける。
「先刻からずっと、十字屋の旦那がお待ちかねやで」
 しんとして返答がないので足を踏み入れたら、予想に違わず目当ては未だ臥していた。そろそろ陽も沈むのに。病を得ているのではない。大切な商売道具で看板遊女だ、主人に神経質なまでに体調維持の術を叩きこまれている。
 従順に頷きながら、案外怠惰な女が薄目を瞬かせた。
「御座敷、断ってください」
「他のお客さんやったらともかく、今夜はあかん。名指しでご所望なんやから」
 ゆらり、結いっぱなしの黒髪が上げられた。しずかに腕を動かし、纏っていた布団を剥ぐ。半身を起こして手招きする。
 逆らう術もなく傍らに腰を下ろした。
「はー、相変わらず。……誰も信じひんやろなあ」

 名前の通りに冷たく高貴な“雪華”が、こないに甘えたやなんて。

 雪華と呼ばれた彼女は反論することもなく、男の取り出した櫛に操られていた。



 夜を知らない花街で、高嶺の花に相応しく易々とは手折られない太夫の中でも、目玉の飛び出そうな値が付けられているのが雪華だ。常連客は限られており、他の遊女に較べれば呼ばれる頻度は低い。そのぶん、失態を演じればたちどころに名声を落とすことをわきまえている。
 今宵も見事に芸をこなし、にこりともせず宴席を沸かせた。笑わない華に眉を顰める客もいたが、終わる頃にはすっかり心を奪われている。
 そうして、更ければ最も金子を振る舞った大尽が共寝の権利を得る。

(ま、関係あらへんけどな。俺、幇間やし)
 賑わいの中で笑みを絶やさず、ほんの少し人の心に敏ければ渡ってゆける。自らを没することで周囲の機嫌を取るのだ。彼の名を廉造と言うだが、興味を持って尋ねてきた者など、たった一人を除いていない。
 そして、忘れず名前で呼び続けてくれる者も。
 本来であれば触れがたい身であった雪華が、己さえ忘れかけていた記憶を呼び覚ましてくれた。
『志摩、廉造?――ご実家はお寺ですか。へえ、よろしくお願いしますね』
 寺は貧困にあえいでいた。口減らしになるならばと、きょうだいの反対を押し切って廓の門前に額を擦りつけ、幇間見習いになってから幾年が過ぎただろう。性格的に向いていたらしく、仕事にも店にもすぐに馴染んだ。

 齢十ほどの、禿であった雪華が売られて来たのはちょうどその頃だ。
 稀に見る美少女だと主人は満悦だったが、俯きがちで碌に口もきかない。苦しい生活ながら学問を積んできたという境遇で、将来遊女としてやっていけるかどうか。困った主人は同年代の廉造に頼んできた。
 厄介だと思ったが、雇い主の言う通りに親切に構い、愛想良くさまざまな面倒を見た。不器用ながら芸事に天性の才を眠らせていた。花開いたらあっという間に店の顔と呼べる太夫への階を駆け昇った。

 ただ、愛想良く、という注文には応えられないらしく、少女のぎこちなくも温かみのある微笑を好ましく捉えていた廉造は秘かに息を吐いた。あの表情を見られるのは自分だけだ。
 一介の幇間に過ぎぬ廉造と、今や傾城の名を轟かせる雪華では立場が違いすぎた。それでも付けるべき禿を拒否し、彼女は打ち解けた廉造にだけ近づくことを赦した。高慢さはなく、世話を焼くのは嬉しいことだった。

『もうすぐ妾の年季も明ける。どうしているかもわからないけれど、離れ離れになってしまった父と兄を真っ先に捜すと決めているんだ。もし、嫌じゃなかったら、 』
 一緒に来て、と、涙を浮かべて誘われたことが鮮やかに蘇る。

 叶う筈のない夢だった。
 遊女はさほど贅沢をしなくとも到底背負えぬ借金を抱えており、滅多に減らない。自由を得るには多大な金子を必要とする。おそらく手段は身請けしかないだろう。
 それこそ城と引き換えられるほどの値を付けられ花街を出て行くのだ。
 彼女に廓は似合わない。一人だけを相手にして愛でられるのも幸福のかたちだろう。廉造には異なる世界の話だ。
 頭の良い雪華なら気づいているだろう。きっと、抗いもせず受け容れる。
 分かりきった結末を、仮想するたび苦さが走る。



 客が帰る、見送りの鐘の音がきこえた。考え事に耽っているうちに朝になったらしい。慌てて立ち上がり、玄関に急ぐ。彼女の昨夜の相手はこんな顔をしていたのか。
 深々と頭を下げるのは、嫉妬に狂った己を悟らせぬためだ。また来てくださいねなんて、心にもない文句を唇から零しながら。

 また、部屋に戻る。女は待ち兼ねていたようにこちらを見据えた。きつく抱きしめて残り香を追い出してやる。
「――逢いたかった、廉」
 恋を滲ませ囁かれる睦言に、何度も重ねて呼び、縋りつく。
「ゆき、……ゆき」

 源氏名しか知らない大尽どもには教えてやるものか。
 彼女の本当の名前をただ繰り返し、湛えられた藍色の光に沈んでゆく。

(この瞬間だけ、俺のもんで在ってくれたらええ)
 他には何も望まないから。
 
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