つむぎとうか
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別離のとき。
「Honey…」
最初は耳を疑った。
「Honey,I love you.」
二度目は夢を見ているのかと思った。
傍らの大男から発せられた言語。世界が滅びても口にしないだろうと思っていた、敵対国のことばを何故だか、荷造りの休憩に居間に寄ったハンガリーに向けて喋っているらしい。
時は冷戦終結直前。ソビエト連邦から、各国が次々と独立していく最中だった。
彼女も例外ではなく、あとはほとんど家主への挨拶を残すばかりに準備を済ませていた。
冷たく大きな、家とは名ばかりの牢を出ていく。
ロシアは、揃いの食事時などはまるで動じない振る舞いを見せていたけれど。
ソファーに腰を下ろしたかつての支配者は、心なしか小さく映った。
…近寄ってみる。身長こそ縮んでいないが、虚ろな目、ぶつぶつ唱え続けるアメリカ英語、見ていられない。
他の構成員なら居たたまれずその場を立ち去っていたかもしれないが、ハンガリーは違った。ロシアの紫の双眸を覗きこみ、おもむろに頬を張った。
ぴしゃり乾いた音が響き、大男がびっくりしたように彼女を見つめ返した。
「正気にかえってないなら、もう一発いっとく?」
肩を竦めて固辞して、ロシアは自嘲に唇の端を歪めた。
「流石だね“ハンガリー”。もう僕に遠慮はいらない、って?」
神が見放した敗戦国だから。
「アメリカ君がね、僕のやり方は時代遅れだって宣言してたよ。これからは、なんでも米国がナンバーワンなんだって」
彼の国の言葉を使えば、みんなは僕を置いていかないのな?――ひとりに、ならずにいられる?
「頭沸いてるでしょ、いまのあんた。外の雪にあたって頭を冷やして来なさい、って言おうと思ったけど、ひっぱたいた方が早いもの」
寂しいからって血迷ってんじゃないわ、とそっぽを向く。
「本当の一人ぼっち状態なんて、長い目で見てもそんなに陥らなかったでしょ」
『明日にでも出て行くわよ』――見捨てられたのだと絶望したが。
たまには遊びにも来るわよと、彼女は励ます。
「世話の焼ける男が気がかりだから」
「…そうだね、永遠の別れというわけじゃない」
(それでも、君があちらの陣営とまた親しく接するのを想像したら。僕には耐え難い恐怖だったんだよ)
「見捨てないで」
かっこわるいのを承知で、力任せに抱きついてみる。
「図体だけの、まるで子どもね」
仕方なさそうに撫でる手つきに安心する。
このぬくもりを失うくらいなら、
(愛される国になってみたかったんだよ)